置き手紙

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2009年11月23日月曜日

続 軽の妻(泣血哀慟歌3)

柿本人麻呂の泣涙哀慟歌はまだ終わらない。愛しい妻を失った人麻呂を失った哀しみは、長歌一首・短歌二首にはき出したところで止むことを知らなかったのか、彼はさらに長大な歌をものする。その歌を紹介しようと思うが、今回も前回に倣い、またその大筋を物語風に示してみようと思う。

いつまでもこの世の存在だと思っていたあの頃、「走り出の堤」のそびえ立つ槻木を、私たち二人は手を取り合っていつも見ていた。

その槻木は四方にその枝を伸ばし、春には沢山の若々しい葉を茂らせていたものだ。私たちはその葉を折り取って上にかざしては、互いの長寿を祈ったものだ。そして、その祈りの通り、いついつまでも二人共に暮らして行こうと楽しみにしていた妻だったというのに・・・・

この世の無常には背くことはできなかったのか、かぎろいが燃え立つ荒野に、白い布に包まれ、鳥たちが朝早くその巣から飛び立つように何処かへ行ってしまった。夕陽が山々の間にその姿を隠すかのように、いずこへか言ってしまった妻よ・・・

その妻が形見のように残したおさなごは母を求め泣き叫ぶ。とはいえ、この私は乳を含ませてあげることも出来ない・・・・かといって、放ってもおけないのでしがない男の身ながらその子をわきに抱えてながら、妻と二人寝た離れの中で、昼はその寂しさにうちひしがれながら過ごし、夜は・・・しきりにため息ばかり吐いて過ごす。

どうしようもなく、逢うことかなわぬ妻を恋い慕っているそんな哀れな私に、とある知人が、「お前の妻をはがいの山でみたよ。」というのでまさかとは思いながら、万に一つのことがあるのではと、その一言にすがるように険しい山道、大きな岩根を超えて私ははがいの山をさまよい歩いた。

・・・・しかし・・・・

それは、やはり甲斐のないこと・・・・

少しもいいことなんてなかった。私がもしや今も何処かで・・・と思う妻が・・・その姿が、ほのかにさえも見ることが出来なかったのだから・・・・

2009年11月19日木曜日

続 軽の妻(泣血哀慟歌2)

妻の死の知らせに、その事実を信じたくない人麻呂は、思い出の地「軽の巷」にその姿を求めようとする。けれども、その姿が見えるはずはない。孤独の淵に陥った人麻呂は、妻の名を呼び、袖を振る。この行為が招魂の儀式の形態であることは前回述べた。その空しさは、人麻呂にはよく分かっていたはずだが、それにさえすがらずにはおけない彼の心情であったのだ。

やがて、その空しさにも気付かねばならぬ時が来る。古代、日本において死者の霊は山中に帰ると考えられていたフシがある。前回の長歌に続く歌は、おそらくそのような死生観に基づいて詠まれたものと思われる。

秋山の 黄葉(モミチ)を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山路知らずも

秋の山の紅葉があまりにも茂り過ぎているので道に迷ってしまったあの子を探しに行く路がわからないことだ。

柿本人麻呂・万葉集巻二・208

ここにおいても「「死ぬ」という言葉は使われていない。これは、前回述べたように実際の「死」に際しては、「死ぬ」という語の使用が避けられていたと共に、この歌の段階において、人麻呂がまだ妻の死を認めていないことを意味する。

秋山の 黄葉(モミチ)を茂み 惑ひぬる

秋の山一面を染め上げるまばゆいばかりのモミチ(万葉集では「紅葉」と書かれることはほとんどなく「黄葉」と書かれるのが一般的)、そのモミチの葉があまりにも茂りすぎたため妻が迷ってしまったと人麻呂は歌う。・・・・山中に入り込んで帰ってくることが出来ない・・・・このこと自体、すでに「死」を意味する表現なのだが、人麻呂はその妻を探しに行こうとしている。(山の中に入り込んでしまった)=(死)の構図が彼の胸中には成り立っていないのだ。

・・・・古来言い習わされてきたように、おそらく妻の魂は奥深い山中に迷い込んでしまったのであろう。けれども、その事が必ずしも「死」を意味するのではない。彼はかたくそう思い、連れ戻そうと思う・・・・ただ、その道がわからない。いったいどうしたらいいのか・・・・・

と人麻呂は嘆いているのだ。しかし、そんな人麻呂もやがてはその「死」を認めなければならないときが来る。

黄葉の 散りゆくなへに 玉梓(タマヅサ)の 使を見れば 逢ひし日思ほゆ

紅葉がはかなく散って行くおりしも、文使いが行き交うのをみると愛しいあのこと逢瀬を重ねていた日々のことが思われてならない。

柿本人麻呂・万葉集巻二・209

「・・・・なへに」とは「・・・・と同時に」ほどの意味。妻の死を象徴するかのような紅葉が散りゆく光景、人麻呂自身哀しみのただ中にある。しかしながら、そんなおりしも、そんなことはおかまいなしに「文使い」たちが行き過ぎて行く、といったところか。

この文使い達は決して人麻呂へうれしい知らせを持ってくるような者ではない。おそらくは、他の恋人達の文を運ぶ使者なのであろう。そんな使者の姿を見たとき、人麻呂には生前、妻と何度となく交わした文、そして重ねた逢瀬のことが思い出されてならないのである。「思ほゆ」とは「思おう」としなくても自然にそのような感情におそわれてしまうことを意味している。

・・・普段ならば何気なく交わす文、たわいのない言いあいもあった・・・けれども、そんなことも、もう出来はしない・・・・

眼前の、他所へと通う文使いの姿を見たとき、人麻呂はそう思わざるを得なかった。ここにいたって、人麻呂はもう妻と文を交わすことも、逢瀬を重ねることも出来ないことを悟るしかなかったのだ。

2009年11月16日月曜日

続 軽の妻(泣血哀慟歌1)

天飛(アマト)ぶや 軽(カル)の道は 我妹子(ワギモコ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲(ホ)しけど やまず行かば 人目(ヒトメ)を多み 数多(マネ)く行かば 人知りぬべみ さね葛(カズラ) 後(ノチ)も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵(イハカキフチ)の 隠(コモ)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の 靡(ナビ)きし妹は 黄葉(モミチバ)の 過ぎて去(イ)にきと 玉梓(タマヅサ)の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為(セ)むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重(チヘ)の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(タマホコ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて袖ぞ振りつる

軽(カル)の巷(チマタ)はわが妻のいる里だ。だから通い通ってよくよく見たいと思うが、休みなく行ったら人目につくし、しげしげ行ったら人に知られてしまうので、またいつか逢おうと将来を頼みにして、岩に囲まれた淵のように、ひっそりと思いを秘めて恋い慕ってばかりいたところ、 あたかも空を渡る日が暮れて行くように、夜空を照り渡る月が雲に隠れるように、沖の藻のごとく私に添い寝た妻は散る黄葉(モミジ)のはかない身になってしまったと、こともあろうにいつも妻の便りを運ぶ使いの者が言うので、あまりな報せにどう言ってよいか、どうしてよいかわからず、報せだけを聞いて、すます気にはとてもなれないので、この恋しさの千に一つも紛れることもあろうかと、妻がしょっちゅう出て見た軽の巷に出かけて行って、じっと耳を澄ましても、妻の声はおろか畝傍の山でいつも鳴いている鳥の声さえ聞こえず、道行く人にも一人として妻に似た者はいないので、もうどうしてよいかわからず、妻の名を呼び求め, ただひたすらに袖を振り続けた。

柿本人麻呂 巻二・207

柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」と題された作である。涙も枯れ果て血の涙を流し、哀しみのあまり転げ回る・・・題名からしてその内容の悲痛が伝わってくるようだ。前回の記事は、この長歌を物語風に現代語訳を試みたものであったが、そのせいもあってかやや不正確な部分があったことも否めない。今回提示した現代語訳は新潮日本古典集成「万葉集」の訳をそのまま掲載したものだ。安心して味わって欲しい。

「天飛ぶや」は「軽」にかかる枕詞。本来は空行く「鳥」「雁(カリ)」にかかる枕詞で、「雁」と「軽」の音が似通っているのでここでは使われている。「軽」は 藤原京を東西に走る「軽の道」が大和盆地を南北に貫く下つ道と接するあたり。今の奈良県橿原市石原町から大軽町にかけてのあたりか。いわゆる幹線道路が交差するあたりであるから、そこは市を設けるには絶好の立地である。多くの男女が行き交う場であっただろう。そんな往来の一画で人麻呂はこの女を見初めたのであろうか・・・

この軽の地に人麻呂の妻は住まいしていたが、この時代のこと、夫婦は同居してはいない。けれども、その思いが深ければ深いほど共に時間を過ごしたい気持は強いだろう事、ここで言うまでもない。しかしながら、そうしげしげと通っていたのでは、人目についてしまう。多くの人間に自分たちの関係が知れ渡ってしまう。古代の男女がその関係を広く知られてしまうことを嫌ったことは後の平安朝の物語を読んでもわかる。これは万葉の時代とてもしかりである。今、状況はこの二人にとって望ましいものではない。もうちょっとすれば通いやすい時期も来るだろうと、互いに将来を期待して、その思いを胸の奥に隠していると・・・

・・・・ここまでが前段となる。男が女の元に通うことを周囲に知られたがらないのは、知られてしまうと二人の中が絶えてしまうとの迷信が当時あったからだも聞く。まあ、そこまで考えずとも、狭い貴族社会の中で、男女の関係などは格好の好奇の的。知られてしまえば、そのうわさの喧しさは際限を知らなかったことだろう。

さて、「渡る日の」以降が後段になる。再開の日を待つ人麻呂の元に女の元から使いが来る。そして、その使いは、人麻呂にとって信じることの出来ない事実を伝える。

渡る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと

その妻の死んで行く様の形容である。空渡る太陽がいずれは沈み行くように、夜空照らす月がやがてその姿を隠すように、人麻呂の妻は世を去ったという。しかし、そこに「死」という語は一切使用されていない。

黄葉の 過ぎて去にき

と表現するのみである。もちろん、万葉の時代にも「死ぬ」という語は存在した。しかし、その語が歌語として使用されるとき、実際の「死」表現する語として用いられる語はならなかった。それは異性に対する思いを誇張する表現として用いられ、今風に表現すれば「死ぬほど恋しい」とか「死ぬほど驚いた」と言ったように使われるのが一般であった。実際の「死」は、この歌にあるように「黄葉の過ぐ」とか「雲隠る」といった比喩的な表現で示されることがほとんどであった。

その「死」も理由・・・それは、この歌に詠まれてあることからはわからない。ただ、それは受け入れがたい事実であったに違いはない。実際に目の当たりに妻の死を見届けたわけではない人麻呂はどうしても使いの言葉を信じたくはなかった。

人麻呂は使いの言葉を信じなければならぬ事を半ば知りながら、それでもその死を確かめずにはいられなかった。前後もわきまえず人麻呂は軽の地へと向かう。しかし、妻の家を直接訪問することは・・・やはり、ためらわれたのだろうか・・・人麻呂はおそらく、妻と出会ったであろう軽の巷周辺を彷徨する。もしや、その人混みの中に妻に姿が見いだされはしないかと・・・・しかし、それは所詮は叶わぬ願い・・・・妻の姿はおろか、妻に似た女の姿さえ見あたらない。人麻呂は悲しみ、そして孤独の淵に沈潜する一方であった。

その悲しみ、孤独に耐えきれなくなった人麻呂は、ついに

妹が名呼びて袖ぞ振りつる

という行動出る。おそらく周囲にはまだ多くの人が往来していたであろう。そんな中で愛しい女の名を呼び続けるなど、上記にあった事情からすれば、当時考えられない行動であったに違いない。しかし・・・人麻呂にはもはやそんなことはどうでもいいことであった。もう、世の目も、うわさも気にならない。ただあの女さへ目の前にいてくれさえすればいい・・・・そんな思いで人麻呂は妻の名を呼んだ。名は、その人間の魂の名と認識されていたのがこの時代だ。その名を大きな声で呼ぶと言うことは、その肉体を彷徨い出で、黄泉の地へと向かおうとしている死者の魂をこちら側の世にもう一度呼び寄せる行動であった。「袖を振る」という行為もおなじく招魂行為である。

古来行われていたであろうこれらの招魂行為は、人麻呂の時代、おそらくは迷信に過ぎない行為であろう事はうすうす理解されていたであろう。しかしながら、そのことで、これらの行為が全く意味のない行為になってしまったことは意味しない。無意味とはわかっていても、どうしてもそれにすがりたくなるときも人間にはある。